第51号 (令和3年1月15日)

昨年の 6 月より月 2 回、1 時間程度、旧陸軍被服支廠を題材としたラジオ番組「Hihukusyoラジオ(*リンク参照)」がインターネット配信されている。これまで被服支廠の保存の動きに関わりのある人たちが登場しているが、今号では第 12 回目の石丸紀興氏の発言の要点を紹介。
ナビゲーター:土屋時子
ゲスト:石丸紀興(広島諸事・地域再生研究所代表)
インタビュアー:瀬戸麻由
―生い立ち、学生時代、広島大学建築学科助手時代の話など―
(省略)


―保存運動の成功体験―
世界平和記念聖堂の敷地に結婚式場付きホテルと信者会館を建てる計画が民間企業より提案され、聖堂側も乗り気であった。世界からの浄財で建てられた聖堂の建立趣旨から営利に加担することは聖堂の品位を貶めることになるという理由で反対運動を起こし、1989 年に約4000 名の署名を集めて司教に提出。その計画は退けられた。


―被爆建物との関わり―
広島の戦後復興に関わった人たち 100 人以上に聞き取りして復興の物語を集め、100 ㍍道路や河岸緑地などの復興計画がどのように進められたのかをまとめた。1981 年頃その成果が評価され、広島新史の中に「都市文化編」として編さんされ、更に 1985 年にビジュアル化した「広島復興 40 年史」として結実。この中に主要な被爆建物の現状について触れている。
その後、助教授になった頃、学生の卒論テーマとして被爆建物を選定。被爆建物のリストを作り、被爆後の軌跡を追跡調査し、現状と課題について考察。自分の研究論文にもなる。


―被服支廠について―
まだ日本通運が倉庫として利用していた頃、東京から訪問した建築系の友人に被服支廠を案内すると、歴史的に貴重な建物をなぜ活用しないのかと批判された。戦前のレンガ建物は横浜、神戸、金沢でも歴史的建築物として有効に活用されている。


―1992 年の提言「赤れんが生き返れ」をまとめた経緯は―
当時、大阪にある紡績工場のレンガ建物がビアホールとして利用され話題となっていた。そこで被爆建物を前面に打ち出すのではなく、何か面白く利用できないものか建築の可能性について多分野の人が議論してまとめた提言。県も関心を持ち、委員会を設けて活用策について何度か検討。これまで瀬戸内海文化博物館とかロシアのエルミタージュ美術館分館などの構想が出たが、どれも立ち消えになる。その原因は真に建築の好きな人が関わっていなかったからではないか。

―いろいろな人のアイデアをまとめるにはどうしたらよいか―
行政が我田引水で一方的に方針を決めるのではなく、ワークショップ形式でみんなが提案を出し合って議論し、一定の方向に導いていく。その仕切り役を行政は果たしてほしい。

―保存活用を前に進めるためには何が必要か―
古い建物を保存改修するためには一般的には建築基準法に適合させなければならないが、国宝や重要文化財、歴史的建築物などの場合は建築基準法第 3 条により適用が除外される。
県が本気で保存活用する気なら、市は歴史的建築物に指定し、それを審査するための条例を制定するなど早めに準備しておかなければいけない。
歴史的建築物を保存活用するための一方策として容積移転制度がある。東京駅の保存はこの制度を適用し、敷地に建てられる余剰の容積を隣地に売却して改修費用に充てている。この制度を適用するためにも条例などの整備が必要である。
保存活用を具体化するには維持管理などの運営組織が必要となる。どんな組織を作って、それに市民団体などがどう関与できるかを検討。受け皿としてユニタールはどうだろう。

―保存活用の提案は―
広島・世界・過去・未来センター構想を描く。平和記念公園を中心に広大旧理学部 1 号館、旧日銀広島支店、旧宇品線沿いの被服支廠を含む旧陸軍施設群などをネットワーク化し、広島と世界及び過去と未来を結ぶ機能を持たせる。そこで被爆 100 周年には世界から人が集まって、いろいろなイベントを年間を通して実施できるような場を提供する。

(編集委員 瀧口信二)