ANT-Hiroshima 理事長 渡部朋子
―広島に生まれながらヒロシマを知らない―
1953 年、私は被爆者の両親のもと、広島に生まれた。
父母は原爆の体験を語ることはなく、ただ懸命に生き、私たち 5 人の子どもを育ててくれた。当時、原爆の傷痕はまだ街のあちこちに残っていたが、それは子どもだった私にとって日常的な風景で、そこに特別な意味を探すことはなかった。
転機は 20 歳の時だ。
最愛の祖父を亡くしたことをきっかけに、私は、自分が生きている意味を深く模索することになった。そして生まれて初めて「広島に生まれ育った自分」を強く意識するに至った。
決して被爆体験を語ることのなかった両親が、何を体験し、何を思い、どのようにして生き抜いたのか、私は初めて知りたいと思った。
これが私の「ヒロシマ」との最初の出あいである。
大学生だった私は、「ヒロシマ」を知るため、多くの人を訪ね歩き、話を聴き、様々な集会に出かけ、本や資料を読んだ。
4 年生の時にそれらを卒業論文にまとめたが、書き終えて分かったことは、「私はいまだ『ヒロシマ』を知らず、その一端に触れただけだ」ということだった。これから先、自分の人生を通して少しずつ「ヒロシマ」に近づいていくしかない。そう思い定めたのである。
当時出会った方々―小倉馨さんや「あゆみグループ」を支えられた中野清一先生(いずれも故人)など―から受けた影響は大きく、その教えは今の私の活動の精神的な中核を成している。
―アジアの人々と共に―
結婚し、3 児の母となった私は、韓国の留学生との出会いを機縁に、現在の ANT-Hiroshima の前身である「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」を 1989 年に設立。
留学生・就学生の支援活動や、国際交流の活動をスタートさせた。
1991年の元広島市長・平岡敬氏の平和宣言は印象深かった。
宣言は、かつての植民地支配や戦争によってアジア・太平洋地域の人々を苦しめたことに対する謝罪とともに、平和を脅かすあらゆる要因を取り除き、人々が安らかで豊かな生活のできる平和の実現のため、不断の努力を誓うものであった。
私は突き動かされるように、1994 年のアジア大会終了後から活動を海外にも広げ、ネパール、パキスタン、フィリピンなどでプロジェクトを開始した。
異文化、言語の壁、紛争、自然災害、資金難など、プロジェクトの推進には多くの困難があったが、現地の人々と共に、10年、20 年と時間をかけて進めていった。
「苦闘し、悲惨にあえぐ人々と共に働く」ことをモットーに各国に出かけ、共に泣き、笑い、かけがえのない友人ができた。
フィリピン・ルソン島北部、第二次世界大戦の激戦地を、和解を求めて小さな車に乗って旅したこともある。
「憎むべきは人ではなく戦争」と言って、私を抱擁してくれたフィリピンの山の民の優しさは生涯忘れないだろう。
今日、これらの友人が毎年 8 月 6 日に自国で原爆展を開催し、平和をつくりだすために率先して行動してくれている。
―国境も固定概念も飛び越えて―
活動の広がりにあわせ、組織の名を ANT-Hiroshima に改称、法人格を取得。
活動の対象となる場は海外へも広がったが、私たちの拠点はあくまでも広島であり、活動の根底にはいつもヒロシマの体験と記憶があった。
2015 年、世界核被害者フォーラムが広島で開催された。
私は 2 年間の準備期間も含めて、実行委員としてフォーラム開催に尽力した。目の前に世界各地の核被害者が集い、当事者としての発言が次々と繰り広げられた。
それが「グローバルヒバクシャ」との最初の出会いであり、彼らとの連帯の必要性を強く感じた。
同じ頃、核兵器の非人道性を焦点に、各国政府や ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)など NGOの働きに注目が集まり、核兵器禁止条約への動きが加速した。
大胆かつ緻密に戦略を立て、インターネットや SNS を駆使して、多国籍で働く ICAN の若者たちの姿に、日本の若者も大きな刺激を受けて、これまでの平和運動のスタイルを越え、新たな広がりを作り始めている。
ANT のインターンやボランティアの仲間たちも、Instagram や YouTube を使いながら、新しい発想で平和発信に取り組んでくれている。
そんな中、ついに 2021 年 1 月 21 日、核兵器禁止条約は発効し、国際法となった。
ANT も ICAN のパートナーとなり、協力しあってキャンペーンを展開している。
―これからの広島の役割―
これからの時代は、核の問題のみならず、今日の新型コロナウイルスのパンデミック、気候変動など、世界中が協力しあって問題の解決のために力を合わせなければならないと思う。
国境をまたいだ多様な人々との連帯を生み出すために、広島は貢献できないだろうか。核の悲惨さや被爆の実相を、当事者の肉声で世界へ伝えてきた広島には、その経験が力として蓄えられているように思う。
その力をもっと世界の問題解決のために役立てたい。
例えば、広島の地に国際 NGO や国際機関などを誘致して、多国籍の志ある若者を招き入れることからスタートしてみてはどうだろう。
また、被爆者の声を受け継ぐ私たちは、被爆の実相を語り伝えるだけでなく、核兵器禁止条約をてこにして、実際に核をなくすための行動を起こしていかねばならない。
その一方で、平和の意味を「非核」のみに限定して捉えることなく、「命と尊厳」を守るために活動する人々への共感と支援を大切に、連帯の輪を広げたい。
広島に生きるということ―その意味を私たち一人一人が、今一度考えよう。広島に生きる私は、世代も国境も越えた仲間と共に、これからも「核なき平和と公正な社会」を目指して力を尽くしていきたいと思う。
参考文献:「非戦・対話・NGO 国境を越え、世代を受け継ぐ私たちの歩み」新評論
大橋正明・谷山博史・宇井志緒利・金敬黙・中村絵乃・野川未央 編著
内田聖子・木口由香・小泉雅弘・田村雅文・満田夏花・渡部朋子 著
まちづくりひろしま第53号(令和3年5月15日)